テキサスからやってきたオーネット・コールマンカルテットがニューヨークに現れて、ファイブ・スポットに出演したのが1959年11月。
それまでとは全く異なったアプローチで賛否両論を呼びます。
マイルスやキャノンボールがこの音楽を認めるのに数年かかったようですが、コルトレーンはいち早く受け入れ、忙しい時間をぬって彼のライブを聴きに行ったそうです。
彼のアパートメントを訪ね、教えてもらったそうです。
後に30ドルが入ったお礼の手紙がオーネットに送られたそうです。
探究心がすごいですよね!
マイルス・デイヴィスと「カインド・オブ・ブルー」を作成したわずか2週間後に
アトランティックレコードで、このアルバムを作成しています。
カインドオブブルーがコードが動かないのに対して、
この曲は目まぐるしくキーが変わります。
なんと、16小節の間に10回キーがかわるのです。
キーが変わるというのは、イメージ的にいうと言語が変わる感じです。
1日の間に10カ国語を1時間毎につかいわけるイメージといえば難しさが
わかりますかね?
しかもキーの変わり方が今までと違う
リチャード・ロジャースの[Have You Met Miss. Jones?]
のサビのコード進行を使って作られたといわれていますが、
長3度という通常ではあまり使わないところをいったりきたりします。
なので、宇宙的なものを感じますよね、、、
3:30あたりでピアノのトミーフラナガンが弾けなくなってしまっています。
彼はもっとゆっくりやるならできると思っていたみたいですが
こんな高速で自分の練習してきたことを一挙にレコーディングって鬼ですよね!
トミーは次の年に「ジャイアントステップス」というアルバムを出しています。
悔しかったんでしょうね!一年間練習しまくったんだとおもいます。
ミュージシャンあるあるですね!
マイルスバンドで「カインド・オブ・ブルー」を発表し、コルトレーンのキャリアは絶頂に向かいつつありました。
プレスティッジとの3年契約が終了するにあたって、彼のマネージャーはより条件の良いオファーを求めて画策。
名乗りをあげたのが、リバーサイド(エヴァンスが契約していますね)のオリン・キープニュースと
アトランティックのネスティ・アーティガンでした。
アトランティックはロックグループでは錚々たるメンバーが契約しています。
レッド・ツエッペリンなどもいますしね!この当時はR&B やレイ・チャールズなんかで名前をあげていました。
ジャズの愛好家でできた会社であったようですが、ジャズは売れない、、、だから売り上げを上げることを重視してきたのですが、ここからジャズ部門に参画していきます。
アトランティックに移籍して、最初が「ジャイアント・ステップス」だと思っていましたが、実はこのアルバムが先なのです。
ほかには、MJQ オーネット・コールマン チャールズ・ミンガスなんかが所属していました。
というわけで、業界用語でいうバータ売り(束売りってことですねww)でMJQのミルト・ジャクソン(あだなが目の下にいつもクマがあるのでBags)との共演でバグス&トレーンという名称ですね!
エバンス、コルトレーン、マイルスどの視点からもこのアルバムは外せない大きなステップになるアルバムです。
これまでのコードがどんどん移り変わっていくスタイルから、1つのコードのモードの中で自由にメロディを作っていく手法が世界中に発表された最初のアルバムになります。
コルトレーンはこの後アトランティックレコードでジャイアントステップというコードが今まで違う所に目まぐるしく移り変わるスタイルのアルバムをつくりますが、その後はモードスタイルを掘り下げて自分らしいフリージャズへと移行していきます。
この曲は特にスパニッシュスケールを使ったりするスタイルなので、今後のコルトレーンの指針が決まっていくアルバムになったのかと思います。
マイルス「これは俺が初めてモード手法を採り入れてレコーディングしたアルバムだった。
特にタイトル曲はモードそのものを使って作曲した。」
といっているので、このあたりで既にカインドオブブルーの構想はできていたんでしょうね!
ブルースを中心とした曲構成で、非常にすきなアルバムです!
1957年モンクの共演もやりつつ、自分のリーダーも精力的に活動しはじめます!
ものすごい激動の年ですね!
専属契約していたプレスティッジに許可を得てブルーノートレーベルでの超名盤です!
John Coltrane(ts) Lee Morgan(tp) Curtis Fuller(tb) Kenny Drew(p) Paul Chambers(b) Philly Joe Jones(ds)
という3管編成のハードバップの代表のようなアルバムですね!
プレスティッジの録音は当日数曲メンバーが持ち寄ってセッションをしながら1発で録っていく方式!
それに対してブルーノートは作品として練り上げる制作方式でつくられていたようです。
このアルバムが今後のコルトレーンの演奏の方向を決定づけたといっても過言ではないかと思います!
ラウンド・ミッドナイトの録音の前後、コルトレーンの麻薬常習癖は非常に深刻になっていました。
マイルスも麻薬経験者のため、最初は多めに見ていたもようです。
とはいえ、ステージもよれよれのスーツであがり、鼻をほじっていたり、遅刻も日常的、、、
あげく、1957年のはじめ、カフェ・ボヘミア出演の時
コルトレーンが全く無反応だったのにマイルスは頭をひっぱたき、腹にパンチをいれたそうです。
そこに仲裁にはいったのがセロニアス・モンク(p)だったわけです!
コルトレーンはこの事件に非常にショックを受け、麻薬・酒の常習癖を断つ決心をします。
マイルスには演奏の質問をしても全く答えてもらえなかったようですが、
モンクは1日かけても徹底的に教えてくれたそうです。
モンクバンドに入ったことと、麻薬を絶ったあとのコルトレーンは全くオーラが違ったと多くの人が証言しています!
すごいことですね!
この演奏も、チャーリー・ラウズ(モンクバンドで一番長い期間のテナーサックス)
とはまた違ったコルトレーンのよさがでていますね!
マイルスはコロンビアに移籍してこのアルバムを出します。
このアレンジも定番ですが、後テーマはやらずに終わる所といい、、、
さすがマイルスって感じです。
1955年にマイルスバンドに加入したコルトレーンは早速多くのライブとレコーディングの仕事が始まります。
世にいう第1期黄金クインテットです。
メンバーは
Miles Davis (Tp)
John Coltrane (Ts)
Red Garland (P)
Paul Chambers (B)
Philly Joe Jones (Ds)
1956年にはジャズ専門のレコードレーベル プレステージからマイルスはコロンビアに移籍することになります。
大手のレコード会社に移籍したかったわけです。
ところが、契約がまだのこっていたため、1956年の5/11 10/26の2日間で一気に四枚分の曲を録音してしまいます。
これがマラソンセッションと言われて、四枚のアルバムがこの後1年ごとに発売されていきます。
Cookin’ Relaxin’ Workin’ Steamin’ のing系4部作ですね!
最初に聴け!といわれたのがこの四枚でした!実際よくセッションでも演奏する曲が沢山はいっています。
今日の[Cookin’]のチューン・アップではコルトレーンのゴリゴリ若い感じが聴き取れますね!
本人はマイルスの頃の初期の頃のアルバムは恥ずかしいとコメントも残しています。
でも、間違いなく、彼を世界的に有名にしたアルバムですね!
マイルスバンドに加入してジョンはすぐにナイーマと結婚しています。(1955年)
この演奏は1961年と随分あとになるのですが、奥さんに捧げた曲です!素敵ですよね!
ウェインショーターの歴史でも紹介しましたが、ウェインがホレスシルバーのバンドで練習している所に現れ、
うちの主人があなたとお話ししたいといっているの、、と彼を家に招待しているエピソードが非常に印象的です。
ジョンとウェインが練習している時にいそいそと手料理を作ってもてなしていたそうで、
とてもいい夫婦だったんでしょうね!