ジャズの歴史を知って音楽をもっと楽しもう! あなたもジャズソムリエに!

ジャズって何から聴いたらいいですか?
ってよく言われます。

ジャズと一口にいってもジャンルとして何十もあって
全部サウンド感が違います。

ジャズっていうと全世界どこでもまず思い浮かぶのが
ベニーグッドマンのシングシングシングである事が多いです。

僕も小学校の時に運動会でめちゃかかっていてメロディ覚えました!

でも、ジャズクラブにいくとこの曲が演奏される事はほとんどないのです。

スウィングジャズ時代にカンザスシティから
チャーリー・パーカーという天才が出没します。

彼がもっと刺激的なアドリブをするために
どんどん方法論を確立していって
ダンスミュージックだったスウィングジャズを
観賞用に変えてしまいます。

これによって、ミュージシャンは刺激を受けてどんどん音楽が発展しますが
お客さんはおいてけぼりに、、、

ジャズの反比例の法則といって
音楽のコード(ハーモニー)の数とお客さんの数は反比例します!ww

どんどんジャズからお客離れしていく風潮の中で

アートブレイキーやマイルスデイヴィスが

ハードバップといって
アドリブの要素だけでなくて、アンサンブルのアレンジをしっかり施して
ショーとして面白くなるようなムーブメントをつくりました。

そのご1960年くらいに
モードジャズ
フリージャズ
と、あらたな手法ができて

1970年には
クロスオーバーとか
フュージョンと言われるような音楽が誕生します。

1980年に
ウィントンマルサリスが
アコースティックジャズの回帰を試みて

その後現代ジャズにつながっていきます。

系譜をたどっていくと
こんな感じのジャズないかなー?が
うまく見つけ出せるようになります

なので、歴史を追ってどんなサウンド感か聴き比べると
あなたもジャズソムリエになれるかも!!

ゆかさんとのラジオ番組Voicyはこちら

コミュ障ミュージシャンのコミュ障脱却奮闘チャンネル

 

ベーシスト スコット・ラファロ

ベーシスト Scott LaFaro

1936年ニュージャージー州ニューアークに生まれた
クラリネットとテナーサックスをやっていたが、17歳の時にベースに転向

1955年にはバディ・マンロウバンドでロサンゼルスにいき、その翌年にはチェット・ベイカーのバンドに
(そのオーディションではビル・エヴァンスとポール・モチアンがバックバンドを務めている)

1959年にニューヨークに移住。エヴァンスと出会う前にベニー・グッドマンバンドでツアーをしている。

ブッカー・リトル(tp)のアルバム やオーネット・コールマン(as)の「フリージャズ」にも参加している。

1961年ヴィレッジバンガードで行ったライブは「Sunday at Village Vanguard」「Waltz for Debby」二枚のライブアルバムになっているが、その2日後に交通事故で亡くなっている。
なんと25歳という若さで、、、、

ドラマー ポール・モチアン

ドラマー Paul Motian
アルメニアの血統で、ビル・エヴァンスの音楽人生に多大の影響を与えた。
1931年にロードアイランドのプロヴィデンスに生まれ、軍役を退いた後ニューヨークに移住。

マンハッタン音楽院で1学期半学んだが、毎夜クラブでの仕事がはいるようになり学業を続けられなくなる。

レニー・トリスターノ オスカー・ペティフォード スタン・ゲッツ アル・コーン ズート・シムズなどの演奏を得て
ビルエヴァンス 黄金トリオに!

1970年台から、作曲家 リーダーとなり、ECM(レコード会社)でのレコーディング
後にソウル・ノート JMT ウィンター・ウィンターなどでもレコーディング

最初に触れた楽器がギターだったこともあり、ギターとのユニットが多い(あまりピアノが入らないイメージです)
ビルフリーゼル(G)ジョー・ロバーノ(TS)とのユニットなどもあり、エレクトリッック・ビバップバンドでは、ギター2台を起用したりしていました。

2011年11月22日 骨髄異形成症候群のためニューヨークマウントサイナイ病院にて死去

同日に発売されたリーダーアルバム The Windmills of Your Mindが遺作となる。

その数年前にニューヨークのヴィレッジバンガードでの演奏をみましたが、
全編このようなルバート曲でした。この時はピアニストが菊池雅章さん(プーさん)でした。

ドラマーリズム楽器というよりも、アートを表現するための楽器だったんでしょうね!

ビル・エヴァンス33 ファーストトリオの構想

ビルはこのトリオを結成するまでに音楽的にこんな構想を考えていた。

「ただひとりの演奏を他の人が追随するような形ではなく、トリオが相互にインプロフィゼーションする方向で育っていけばいいと思う。例えば、もしベース・プレイヤーが自分の演奏で答えたい音を聴いたとする。(注釈:頭の中に聴こえたとする。)それなのにどうして4/4拍子を後ろでただ引き続けている必要があるんだ!」

この当時、こういった演奏するバンドはまだなく、ベース・ドラムはあくまでアドリブのサポートと考えられていた。

今では当たり前にされるこのスタイルも、ビルが完成させたからこそですね。

スコットラファロがスタンゲッツバンドにいた時はあくまでシンプルなライン奏者ですからね!

バート・バカラック丸ごと解説 ゲスト:平賀マリカ(ジャズボーカリスト)Burt Bacharach

2023年2月8日 大作曲家バート・バカラックさんがお亡くなりになられました。
自伝も出版されていまして。
彼の生涯をまとめるにあたって、僕がよく共演させていただいている
平賀マリ力姐さんがバカラックさんの曲集アルバムをつくっていて
本人に手渡した!というエピソードがあるので、対談をしてみました。
対談内容にいろいろな人物が登場しますので
前半はバカラックさんにまつわる生涯をざっとまとめたお話しをしてあります。
バカラックさんの作風について、こんな時代にまとめました
 ブリル・ビルディング作曲時期
 ハル・デイヴィッド(作詞家)とディオンヌ・ワーウィックとのタッグ
 キャロル・ベイヤー・セイガー(作詞家)と共作時期
 後期自分の演奏活動
 エルヴィス・コステロとの共作時期

マリカ姐さんには
以下の内容でインタビューしました。
 バカラック本人に直接CDを渡した
 バカラックの作品で一番衝撃を受けた曲は?
 レコーディングのエピソード
 プロボーカリストからみてバカラックの曲の魅力は?
 アーティストの苦悩
 娘ニッキ
 ニューヨークシティセレナーデ

素晴らしい作曲家で成功者ですけど
ジレンマや苦悩があるんですね。

バカラックにCDを渡した平賀マリ力姉さん

先日岡崎ジャズストリートでご一緒しました。

もうデビュー当時からとても仲良くしてもらっています。

一緒に四日市にライブにいって帰りに横綱ラーメン食べたよねーって今でも話します。

作曲家のバート・バカラックさんがお亡くなりになられて、いろいろ調べていたら、ふと
そういえば姉さんバカラックさんにCD渡したとか言ってたなー、、

本当は随分まえに対談したのですが、バカラック事情知らない人には
ハル・デイヴィッドとかわからないだろうし、、

ちょっとまとめを作ってからにするかー、、と思ってはや半年くらいたったかも

というわけで、できれば今月中にバカラック入門&マリカ姉さん対談作りたいとおもいます。

バカラック特集のこのCDをお渡ししたそうです。選曲もとてもいい素晴らしいCDです!

バート・バカラック12 売春宿を描いた映画の挿入歌 House Is Not A Home

1920年代 ニューヨークで名を馳せた マダム・ポリー・アドラーの生涯を描いた映画
「禁じられた家 A House Is Not A Home」の主題歌をバートは作曲しています。

ブルック・ベントンが歌ったのですが、メロディラインを譜面と違って歌っていたらしく
職人肌のバートが何度も注意してレコーディングが険悪になったので、バートはレコーディングルームから閉め出されています。

バートはルーサーバンドロスのバージョンが最高っていっていますね。

バート・バカラック12 売春宿を描いた映画の挿入歌 House Is Not A Home

1920年代 ニューヨークで名を馳せた マダム・ポリー・アドラーの生涯を描いた映画
「禁じられた家 A House Is Not A Home」の主題歌をバートは作曲しています。

ブルック・ベントンが歌ったのですが、メロディラインを譜面と違って歌っていたらしく
職人肌のバートが何度も注意してレコーディングが険悪になったので、バートはレコーディングルームから閉め出されています。

バートはルーサーバンドロスのバージョンが最高っていっていますね。

バート・バカラック11 オバマ大統領も歌うWalk On By

ディオンヌ・ワーウィックの曲でバート・バカラックの曲となると
トップ10には入るこの曲「Walk On By 」

ニュージャージーでの選挙戦中に一緒にその地を回ったディオンヌを讃えて、この曲の冒頭を歌っています。
選挙活動で歌うってすごい!

バートは歌にうるさいのに、「ちゃんと歌えているんだ!すごい!」って言っています!

 

ジョン・コルトレーン18 オーネット・コールマン

テキサスからやってきたオーネット・コールマンカルテットがニューヨークに現れて、ファイブ・スポットに出演したのが1959年11月。

それまでとは全く異なったアプローチで賛否両論を呼びます。

マイルスやキャノンボールがこの音楽を認めるのに数年かかったようですが、コルトレーンはいち早く受け入れ、忙しい時間をぬって彼のライブを聴きに行ったそうです。

彼のアパートメントを訪ね、教えてもらったそうです。
後に30ドルが入ったお礼の手紙がオーネットに送られたそうです。

探究心がすごいですよね!