ジョン・コルトレーン17ジャイアント・ステップス

マイルス・デイヴィスと「カインド・オブ・ブルー」を作成したわずか2週間後に
アトランティックレコードで、このアルバムを作成しています。

カインドオブブルーがコードが動かないのに対して、
この曲は目まぐるしくキーが変わります。

なんと、16小節の間に10回キーがかわるのです。

キーが変わるというのは、イメージ的にいうと言語が変わる感じです。

1日の間に10カ国語を1時間毎につかいわけるイメージといえば難しさが
わかりますかね?

しかもキーの変わり方が今までと違う

リチャード・ロジャースの[Have You Met Miss. Jones?]
のサビのコード進行を使って作られたといわれていますが、
長3度という通常ではあまり使わないところをいったりきたりします。

なので、宇宙的なものを感じますよね、、、

3:30あたりでピアノのトミーフラナガンが弾けなくなってしまっています。
彼はもっとゆっくりやるならできると思っていたみたいですが
こんな高速で自分の練習してきたことを一挙にレコーディングって鬼ですよね!

トミーは次の年に「ジャイアントステップス」というアルバムを出しています。

悔しかったんでしょうね!一年間練習しまくったんだとおもいます。

ミュージシャンあるあるですね!

バート・バカラック10 イギリスでコピった曲の方が本家より売れるという現象

1964年 バートとハルの共作「Anyone Who Had A Heart」恋するハート(邦題)が発表されました。
この時はディオンヌ・ワーウィックが歌ったものだったのですが、この当時アメリカのヒットソングは数週間で全くそのままコピーされイギリスで世界発売されるという事が頻繁にあったようです。

ディオンヌよりもシラ・ブラックの演奏が世界的に有名になってディオンヌは機嫌がわるかったようですね!

サビに行く前にちょっと変則な小節があったり、非常にバカラックらしい作風ですね!

 

ジョン・コルトレーン16 アトランティック初のアルバム

マイルスバンドで「カインド・オブ・ブルー」を発表し、コルトレーンのキャリアは絶頂に向かいつつありました。

プレスティッジとの3年契約が終了するにあたって、彼のマネージャーはより条件の良いオファーを求めて画策。

名乗りをあげたのが、リバーサイド(エヴァンスが契約していますね)のオリン・キープニュースと
アトランティックのネスティ・アーティガンでした。

アトランティックはロックグループでは錚々たるメンバーが契約しています。
レッド・ツエッペリンなどもいますしね!この当時はR&B やレイ・チャールズなんかで名前をあげていました。

ジャズの愛好家でできた会社であったようですが、ジャズは売れない、、、だから売り上げを上げることを重視してきたのですが、ここからジャズ部門に参画していきます。

アトランティックに移籍して、最初が「ジャイアント・ステップス」だと思っていましたが、実はこのアルバムが先なのです。

ほかには、MJQ オーネット・コールマン チャールズ・ミンガスなんかが所属していました。

というわけで、業界用語でいうバータ売り(束売りってことですねww)でMJQのミルト・ジャクソン(あだなが目の下にいつもクマがあるのでBags)との共演でバグス&トレーンという名称ですね!

バート・バカラック09 ベイシーバンドは3拍子が演奏できない?

元の曲は3/4で書かれた曲で、ジャック・ジョーンズがレコーディングしています。
クインシー・ジョーンズのアレンジでシナトラが歌って、ベイシーらしいアレンジ感じにしあがっていますね!

バカラックはクインシーに直接電話をかけて、なぜ4拍子になっている?

と聞いたそうです!

「バート、ベイシーのバンドは3拍子が弾けないんだ!」との答え!

まあ、弾けなくはないんでしょうけど、ベイシーらしくならないんでしょうね!

ビル・エヴァンス31 ポートレイト・イン・ジャズ

1959年 ビルはミュージシャンに好かれるミュージシャンの印象が、
「ダウンビート」誌でも6位まで上昇しています。

リバーサイドのオリン・キープニュースは早速この黄金トリオでのアルバム制作を企画

名盤中の名盤「ポートレイト・イン・ジャズ」ができあがります。

枯葉のイントロとかも有名ですが、あえてこの曲を選んだのは、当時付き合っていた彼女の名前
ペリがはいった曲です。

1年前に作曲されていたそうですが、録音が終わって電話している時に
「何を録音したと思う?」と彼女にきいたそうです!

かっこいいですね!

 

ビル・エヴァンス30 黄金トリオの出会い

エヴァンスがトリオを組みたいというのを聞いて、マイルス・デイヴィスはエージェントに掛け合って

ベースにジミー・ギャリソン
ドラムにケニー・デニス

のメンバーでルグラン・ジャズの演奏をとってきてくれた。

こういう所がメンバーの面倒見がいいですよね!
メンバーだった人はマイルスを冷たいと感じている人はほとんどいない所以ですね。

結局リハーサルの後、イースト49町目にあったベイジン・ストリート・クラブ
(旧カーサー・クーガー)に3週間演奏することになった。

ただ、この仕事がベニー・グッドマンバンドの前座的な役割で
ベニーのバンドは夕食がでるのに対して
ビルのバンドには飲み物も有料で、演奏中はマイクの電源すら切られる有様だったようです。

ジミーもケニーもあっという間に仕事を降りることになり
フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)が入ったりすることもありつつ

固まったトリオが
スコット・ラファロ(B)
ポール・モチアン(ds)だったわけです。

なんという引き合わせなんでしょう!!!

そして「ポートレイトインジャズ」の録音へと進んでいくわけです!

 

バート・バカラック08 喧嘩の中のセリフからできた曲「Don’t Make Me Over」

前回紹介した「涙でさようなら」は、最初ディオンヌ・ワーウィックのために書いたものの、
彼女が曲に興味を示さず、発表されなかったので、ジェリー・バトラーに歌わせたのでした。

でもディオンヌは、勝手に自分の曲を受け渡したと考えて、揉めます。

話合いの中で「Don’t Make Me Over Man」私を人に譲ったりしないで。
というセリフがあり、なんとバートとハルは1週間後そのタイトル曲を書き上げた。
それがこの曲です。

ディオンヌと仕事がしたかったバートとハルはこのあと彼女と3人のプロダクション会社を作って
今後ヒット作をガンガン飛ばしていくことになります。

ディオンヌは日本ではあまり名前を知ってる人は少ないかもですが、
We Are The World にも参加していて、ホイットニー・ヒューストンの叔母さんになります。

ジョン・コルトレーン15 モードの代表作「カインド・オブ・ブルー」

エバンス、コルトレーン、マイルスどの視点からもこのアルバムは外せない大きなステップになるアルバムです。

これまでのコードがどんどん移り変わっていくスタイルから、1つのコードのモードの中で自由にメロディを作っていく手法が世界中に発表された最初のアルバムになります。

コルトレーンはこの後アトランティックレコードでジャイアントステップというコードが今まで違う所に目まぐるしく移り変わるスタイルのアルバムをつくりますが、その後はモードスタイルを掘り下げて自分らしいフリージャズへと移行していきます。

この曲は特にスパニッシュスケールを使ったりするスタイルなので、今後のコルトレーンの指針が決まっていくアルバムになったのかと思います。

ビル・エヴァンス29 人生唯一の講師経験

1957年 マサチューセッツ州西部バークシアーズにあるレノックスにジャズ音楽学校ができます。音楽監督はジョン・ルイス

8月の3週間だけエヴァンスが講師として招かれたようです。
生涯唯一の教師の経験だそうです。

講師はジョージ・ラッセル ハーブ・ポメロイ ケニー・ドーハム マックス・ローチ JJジョンソン ボブ・ブルックマイヤー ジミー・ジェフリー ビル・ラッソ ジム・ホール MJQメンバー全員

生徒陣は アル・キーガー デイブ・ベイカー フレディー・ハバード ゲイリー・マクファーランド

なんと オーネット・コールマン ドン・チェリーも聴講していたようです!

エヴァンスはジョン・ルイスの補佐としてラン・ブレイクやスティーブ・キューンを教えたようです。

この時の受講者に兄のハリーも参加していたそうです。

この後に作った教育ビデオが上に貼ったドキュメントビデオです!

なんでもYouTubeで見れるってすごいですね!

 

バート・バカラック07 初めての総指揮制作「涙でさようなら」

ディオンヌ・ワーウィックから連絡があり、ハル・デイヴィッドとの曲を数曲録音したのだけど、
その時「涙でさようなら」[Make It Easy on Yourself]はディオンヌもあまりピンときていなかった。

結局セプター(レコードレーベル)ではこの曲はださないときまったので、
ヴィージェイ(レコードレーベル)で、ジェリー・バトラーの歌で録音することに決定した。

ミュージシャンを集めて、指揮をとってレコードを作ってくれ!と言われ、バートは人生初の総指揮を努めた。

ポップ・チャート20位まで上昇したのだけれど、
このプレスされた音質が気に食わなかったらしく、バートは回収して作り直す!なって言ったそうです。

職人的なこだわりですね!