ルパン三世ジャズバージョンをアンパンマンドラムセットで本気演奏してみた!

ルパン三世ジャズアレンジバージョンを
アンパンマンドラムセットで
思いっきり本気演奏してみました!

ルパン大好きなんで
コスチュームまでやらかしました!
基本スーツ系なんでいいのかなーと

今回はビッグバンドのキメがいっぱいあったので
思いっきり叩いていたら
豆太君がめちゃくちゃいやーな顔してました

アントニオ・カルロス・ジョビン10 イパネマの娘

アメリカでの成功でジョビンはそのまま大富豪になり
なに不自由なく暮らしていた!なんて思っていましたが
アメリカでの演奏料はブラジル人がアメリカの曲を演奏するので
相殺になっているという形だったらしく

さぞかし「イパネマの娘」で稼いだのだろう?と思っていたのですが
それほど印税ははいってこなかったようです

そこで、コルコバード・ミュージック出版社というのを設立し
後に充分印税が入ってくることになるのですが後のことらしく

演奏もユニオンが認めてくれないため
演奏してもギャラが払われることはなく
ニューヨークではそれなりに苦しい生活だったようです

ブラジルで1963年
「The Composer of Desafinado Plays」がレコーディング
素晴らしい評価をもらう
この時にアレンジャーに2/2拍子で書くように勧められたそうです
当時は2/4で書くのがブラジルでは主流だったそうな、、、
逆だと思っていました,,,

イパネマをアイパニーマと発音する人が多く
それはアメリカで当時よく知られた歯磨き粉の名前だったため
トムは英語での歌詞作りを頑張らざるをえなかった

アストラッドジルベルト(ジョアンジルベルトの妻)を呼んで英語での歌詞のデモテープを作成
これにより、ゲッツ&ジルベルトで英語版のレコーディングの話が成立します

ゲッツ&ジルベルト

ボサノバとジャズの名盤「ゲッツ&ジルベルト」での
出来事はご存知の方も多いかと思います

ゲッツはカーネギーコンサートにもきていて
すでにジョビンの曲を録音していたりもしていて
ボサノバが大好きでジョビンとレコーディングがしたいわけです

ジョビンは自分が演奏するよりはコンポーザー的な立場がよいし
ジョアン・ジルベルトをアメリカに知らしめたいわけです

でも、当のジョアンは根っからのミュージシャンです
ゲッツがボサノバをわかってないとか
英語が話せないジョアンはジョビンに悪態をつくわけです

でもジョビンはそんな事言えるわけもないので
ゲッツには「君が素晴らしいといっている」などといって場を繕います

ジョアンはそんな雰囲気を見て自分の言葉が伝わってないことに対して
今度はジョビンに対して悪態をつくしまつで
当日のレコーディングにジョアンは現れないのです

ジョビンは焦りまくって妻のテレーザに助けを求めます
ホテルにいるテレーザに電話したがすでに40分も遅刻しています
ジョアンはレコーディングはしないつもりだと告げるといいはります

なんとかレコーディングがおわったのものの
ジョアンは発売されてるころにはヨーロッパツアーにいったきりで
帰ってきたのは1年後になります

アストラッドの歌う「イパネマの娘」をシングルで発売
200万枚も売れ、アメリカにボサノバが浸透することになるわけです

ボサノバをつくったのは
ナラ・レオン ホベルト・メネスカル カルロス・リラ
などの名前があがりますが
初耳!なんて方も多いのでは?と思います

やはり英語で歌われて、内容がわかった!ことに
多くの人がボサノバの魅力を感じたからで
入り口ができたから好きな人はポルトガル語も聴くようになったわけだと思います

ジョビンがなし得た功績はまさにここにあると思っています!

アントニオ・カルロス・ジョビン09 カーネギーホールコンサート

シドニー・フレイという出版社の社主で
レコード会社オーナーが

1962年11月21日
カーネギーホールでのボサノヴァのコンサートを企画した

外務省が22名分のアーティストの旅費を用意したが
コパカバーナでのカクテル・パーティーで
招待されてないが出演したいミュージシャンが殺到

シドニーとしては、沢山でれば受けるものもあるだろう的な思惑で
自費でいくなら誰がきてもかまわないということになってしまう

統制のとれた立派なコンサートを企画していたが
これでは出鱈目なショーになってしまう

トムはそれを聞いてコンサートに行くのを辞退した
しかし外務省から電話があり
沈むなら船長のお前も沈んでこい!
ということで参加せざるを得ないことに

会場は満席のなかトムは歌うことに
ワンノートサンバ一曲のつもりが
コルコバードを2回歌うはめになった

コンサートは賛否両論だった
ブラジルではこのコンサートに敵意を持つ人がいて
酷評されることになる。
アメリカでは好意的な記事もあったが
雑誌「ザ・ニューヨーカー」には
「ボサノバ・ゴーホーム」と書かれ

当時の音楽ユニオンはブラジル人がプロとして演奏するなら
国外退去にすると圧力をかけていた

新しいものに対する拒絶反応というのがすごいですよね
しかしこれはトムに対して怒りとやる気にさせた
というのがすごい!

こういったボサノバの舵取りをしていったジョビンがいたからこそ
今だに世界で演奏されるジャンルになったのではと思います

[Antonio Carlos Jobim] から

 

アントニオ・カルロス・ジョビン08 One Note Samba

サンパウロの音楽TV番組「オ・ボン・トン」に出演

そこで、彼は多くのゲストを紹介してボサノヴァを広げていく

ナラ・レオン ホナルド・ボスコリ アゴスチーニョ・ドス・サントス シルヴィーニャ・テレス ホベルト・メネスカル オスカール・カストロ・ネヴィス ヴィニシウス・ヂ・モライス

彼のすごいところは「自分が!自分が!」ではなく多くのミュージシャンを
自分のことのように紹介していくこと

そして、アメリカに乗り込んで歌詞や著作権と戦っていったところにあると
僕は思っています

そうでなければ一時期の流行りで終わってしまったのではないか?
と思うのです。

英語の歌詞

この当時すでにアメリカでは
「デサフィナード」「ワンノート・サンバ」は流行っていた
ボサノヴァ旋風が吹き荒れ、たくさんのレコードが売れていた

ボサノバはジャズのビッグスターによってアメリカへはいったが
多くはトムが思っているのとは違う形で演奏され
歌詞も適当な英語に置き換えられていた。
トムはそれをいやがっていた

ジョビンのすごいのはここで英語を勉強して
自分で英語歌詞をつくっていったところだと思います

作りかけの英語の歌詞をポケットにいれ
英語が堪能な人をみつけてはこれでいいか尋ねていた

ワンノートサンバはポルトガル語はニュートン・メンドーサ
英語はアントニオ・カルロス・ジョビンがつくっている

英語版

 

[Antonio Carlos Jobim] から

アントニオ・カルロス・ジョビン 07 Dindi

義父のセルソと母親のニルザは
リオの家を引き払っって
ブラジルの山奥ミナス・ジェイラス州にある
ポッソフンドに移り住んで養鶏を営んでいた

トムは時間が許せば週末そこに向かい
そこで多くの曲を作曲している

トムは亡くなるまでずっと自然愛護者だったし
多くの自然があるポッソフンドを愛していたのだと感じます。

有名な曲Dindiは
マラヴィーリャへ行く途中のヂリンヂの大草原から
「どこへ行くとも知れない川の水」という歌詞になっているようです
ずっと女性の名前だと思っていました

[Antonio Carlos Jobim] から

アンパンマンドラムセットでTake5を叩いてみた!

このドラムセット前から気になっていて
バスドラムのペダルなんてプラスチック一本でつくってて
でも結構ちゃんと動きます

すごい開発に色々考えてるんだろーなー

ニュージャージーでセッションした時って
ドラムあるよーっていわれていったら
ライドとスネアとハイハットしかなったんです、、、

でもみんなそれだけで十分音楽つくるんですよ

こういう楽器でどこまで表現できるか?
色々やってみようと思います!

今回はジャズの定番
ポールデスモンドの
TAKE5を演奏してみました!

 

3拍子が上手くなればジャズドラムは格段に上手くなる!

ある程度の演奏ができるようになると
3拍子をまたぐ練習をしていく事で
ジャズドラムの演奏は飛躍的に上手くなります

3拍子の最初はおそらく
ソニーロリンズプラス4の
バルスホットじゃないか?と思っています
このサウンド感から
バディリッチのノルウェーの森のような
スピード感あるドラミングにするには
シンコペーションが必須です!

2種類のシンコペーションができれば
かなりモダンな3拍子が叩けるかと!

僕の作った3/4のシンコペーションブックも使って
練習してみましょう!

3/4シンコペーションブック(メルマガ読者限定)

3/4 syncopation book

アントニオ・カルロス・ジョビン06 ジョアン・ジルベルト

ジョアンとの出会い

1958年トムはアルバム「カンサォン・ド・アモール・ヂマイス」に参加
この時「想い溢れて」Chega De Saudadeでジョアンジルベルトはヴィオラォンを弾いた

ボーカルは エリゼッチ・カルドーゾ
当時一番売れたアルバムとなった!

この完璧主義者のジョアンの才能をトムは非常に評価し
彼のレコーディングをしてくれるレコード会社を探したが
無名のジョアンを起用する会社はみつからなかった

しかしトムはあきらめず
1959年にとうとう ジョアンの名義の「Chega De Saudade」を世に送り込んだ

以下引用

アルバム「想いあふれて」は決定的にボサノヴァを世に送り出したのだ。
この名前は、トムがアルバムの裏に書いた、ジョアン・ジルベルトを賛美する
「このバイーア出身の新しい才能(ボサノヴァ)」という一文から
マスコミが拝借したものだった。

「アントニオ・カルロス・ジョビン」エレーナ・ジョビン著

人を信用して、夢をあきらめず、才能をめでるトムの姿勢は
すごくキュンとします!

[Antonio Carlos Jobim] から

アントニオ・カルロス・ジョビン05 作曲の手順

作曲のやり方って色々ありますよね

モーツァルトは曲を書き始めて
途中でインスピレーションが途切れたものは駄作だと
捨ててしまっていた

それをみたベートーヴェンは
何度も手直しして書き直して良い曲にしていけばいい!と考えた

ジョビンの書き方は面白いです

奥さんテレーザとはずっと恋人のようで
離れたら長電話をするというラブラブ具合

以下引用

頭に浮かんだテーマを展開するのだが、その途中でハーモニーに行き詰まることがある。
すると彼は、テレーザに助けを求めた。
「テーマはどうだっけ?」
すると、テレーザはメロディを口ずさみ、教えた。
「こうだったかしら?」
彼は妻の歌に満足し、笑った。
「完璧だ」

テレーザはやきもきした。メロディーが浮かぶたびに、すぐ紙に書きつけてくれればいいのに。
だが、トムにはトムの作曲の仕方があった。曲を作る時には、まずハーモニーから探っていくのだ。
メロディーはその後で、テーマを集約する事になる。その後ようやく、歌詞という「化けもの」にとりかかり、磨きをかけ、最後に全部を紙に書き出すのだ。

「アントニオ・カルロス・ジョビン」エレーナ・ジョビンより

僕の友人のピアニストも
作曲して弾きこんで、数ヶ月して全部ひけたら紙に書き出す
という人がいます

僕なんかわすれちゃうから、ドラムソロでも1小節づつ書いちゃいますけどねーww

[Antonio Carlos Jobim] から