マイルスはコロンビアに移籍してこのアルバムを出します。
このアレンジも定番ですが、後テーマはやらずに終わる所といい、、、
さすがマイルスって感じです。
マイルスはコロンビアに移籍してこのアルバムを出します。
このアレンジも定番ですが、後テーマはやらずに終わる所といい、、、
さすがマイルスって感じです。
1955年にマイルスバンドに加入したコルトレーンは早速多くのライブとレコーディングの仕事が始まります。
世にいう第1期黄金クインテットです。
メンバーは
Miles Davis (Tp)
John Coltrane (Ts)
Red Garland (P)
Paul Chambers (B)
Philly Joe Jones (Ds)
1956年にはジャズ専門のレコードレーベル プレステージからマイルスはコロンビアに移籍することになります。
大手のレコード会社に移籍したかったわけです。
ところが、契約がまだのこっていたため、1956年の5/11 10/26の2日間で一気に四枚分の曲を録音してしまいます。
これがマラソンセッションと言われて、四枚のアルバムがこの後1年ごとに発売されていきます。
Cookin’ Relaxin’ Workin’ Steamin’ のing系4部作ですね!
最初に聴け!といわれたのがこの四枚でした!実際よくセッションでも演奏する曲が沢山はいっています。
今日の[Cookin’]のチューン・アップではコルトレーンのゴリゴリ若い感じが聴き取れますね!
本人はマイルスの頃の初期の頃のアルバムは恥ずかしいとコメントも残しています。
でも、間違いなく、彼を世界的に有名にしたアルバムですね!
マイルスバンドに加入してジョンはすぐにナイーマと結婚しています。(1955年)
この演奏は1961年と随分あとになるのですが、奥さんに捧げた曲です!素敵ですよね!
ウェインショーターの歴史でも紹介しましたが、ウェインがホレスシルバーのバンドで練習している所に現れ、
うちの主人があなたとお話ししたいといっているの、、と彼を家に招待しているエピソードが非常に印象的です。
ジョンとウェインが練習している時にいそいそと手料理を作ってもてなしていたそうで、
とてもいい夫婦だったんでしょうね!
1955年マイルスはコロンビアレコードからレギュラーバンドができたらレコーディングをする。
という申し出に、テナーが見つからずにイライラしていた。
ソニーロリンズはドラッグでどこかに雲隠れしているし、キャノンボールは教師としての契約が残っていたため他をあたらなければならなかった、、
そこでドラマーフィリージョージョーンズが友人のコルトレーンの名前を聞くわけです。
マイルスはガレスピバンドにいた頃のコルトレーンを知っており、ロリンズとコルトレーンを雇い一緒に演奏しています。その日はソニーロリンズが最高で、コルトレーンを震え上がらせています。
オーディションを受けるためにやってきたコルトレーンを聴いて独自のサウンドになっていて、格段に成長したコルトレーンをみます。
でもオーディションのあとは声をかけられることがなく、コルトレーンはサックスをケースにしまい、ジミースミスバンドに戻るためにフィラデルフィアに帰って行きます。
この音源はその1年後に録音されたものです。完璧に渡り合っていますね!名盤ですしねww
1955年コルトレーンは1年のほとんどをツアーにでていた、生活も安定して、兵役で得た金をもとに母・いとこのメアリー(後に曲名としてつけられていますね)を呼び寄せて家を購入しています。
最初の奥さんになるナイーマといつ一緒にすんでもおかしくない状況、ジミー・スミスのバンドに入ってっクラブに出演もきまって充実した日々を過ごしていました。
一緒に演奏している音源はみつからず、、、ジミースミスの映像を選びました。
ブルージーなオルガンでめちゃくちゃかっこいいですよね!
なんとマイケルジャクソンのBADのオルガンはジミースミスです!
知らず知らずに聞いていたかもですね!
デューク・エリントンバンドのリードアルトのジョニー・ホッジスは
コルトレーンの学生時代からの憧れ。
なんとそのバンドで長期の仕事をすることになります。
若き日の憧れの人のバンドやるって本当ドキドキするんですよね!
誇らしい気持ちもあったり!
この演奏では音色がコルトレーンらしくなってきていますねー!
ガレスピーバンドを1年半続けたものの音楽的飛躍にはつながらず、ドラッグの使用が見つかりバンドを解雇されます。その後もガレズピにセプテットにも誘われたりするものの、フィラデルフィアに帰ることになります。
この後3年 R&Bとジャズに揺れ動き、ドラッグから酒、またドラッグへと揺れ動く生活を続けます。
R&Bの人気スター アール・ボスティック(Ts)のバンドでツアーとレコーディング。
コルトレーンは自分のテナープレイに大きな影響を与えてたといっています。
1949年の終わりから18ヶ月間ディジー・ガレスピバンドで活動しています。
ジョンにはこの時2つのフラストレーションがあったようです。
1。リードアルトを吹いていたものの譜面通りふくだけ
2。バンドの経済成長のためコマーシャル的な曲が多かった
控えめなジョンは自分の音楽性が標準より劣っていると感じていたようです。
確かに、軍隊の時よりは上手くなっていますが、演奏はまだまだな感じですねー!ガレスピがいるから比べちゃうのもあるのかもですが、、、
ガレスピ自身はジョンをすごく買っていたようで、後にセプテットにも参加させています。
でも、尊敬するガレスピの元で演奏するのは嬉しかったようですね!
そらーそうですよ!!
軍役で稼いだお金でフィラデルフィアに戻り音楽学校で理論などを勉強しはじめます。
1940年代の終わりあたり、ブルースバンドのツアーなどに参加したりしています。本人も、中身がないポピュラーミュージックバンドに明け暮れていたといっています。
この動画のエディ・ヴィンソンバンドのオーディションで、エディに「テナーでソロを取ってみろ!」といわれ躊躇するも、吹き始めるとデクスターのようなすごい音が!
これをきっかけにテナーに転向しています!
もちろんこの動画のサックスはコルトレーンではありません。ご了承ください!
1945年8月からホノルルに軍役で1年間駐屯します。
その時のバンド活動がレコードになっているんですよ!
パーカーの演奏を真似た感じになっていますが、まだまだ学生っぽい演奏ですよね!
ウィントンマルサリスはこの演奏をみて、有名になる人は若くして何かもっているものだが、全く何も感じられない、、、これが20年であの演奏になるとは信じられないといっています。
ものすごい練習量だったんでしょうね!!